- 慣習としきたりに抑圧されて健康を害していた私
- ドラマだと思っていた生活を素で楽しんでいる人たちとの出会い
- 一大決心して引っ越し準備を終わらせたら間際でまさかの申請却下
- アメリカで成功している先人から予想外のオファーで開運
- 私たちアジア人の子供たちを現地の子供たちが受け入れてくれますように祈る日々
- 一時居住からグリーンカード取得への制度との戦いとクリスチャンからの支援
- 親という鬼門と場所を超越するしがらみに呼び戻される危機
- 世界で一番頼りになる、世界で一番愛している夫を失い私も倒れる
- 時間の静止した世界の中心で探していたものと出会う
- 正直な行動によりビジョンがどんどん現実になってくる
- 私が幸せになると家族みんなも人生が成功し始める
- アメリカではなく今いる場所に「私のエレメント」があることに気づきました
慣習としきたりに抑圧されて健康を害していた私
団塊世代と呼ばれる年代に生まれ、学校の校舎が足らずプレハブ増築を経験の世代。戦後の教育を真面目に守る親世代、長男は家族の面倒を見て当たり前の価値観、女は黙って従うことが美徳という教えが当たり前と言われ、とんでもなく我慢強い性格が出来上がる。昭和の時代、大家族に近い家庭で女は耐えて当たり前とする母の生活を見て育つ。25歳過ぎたら売れ残りと言われた時代、自立することもできず結婚。夫が事業を始めてからはずっと仕事、家事に明け暮れる。今思うとマイナスが連鎖する生活の始まりでした。夫の両親、弟、スタッフの食事の用意もあり、体調不良の状態で何年も過ごすことになる。頭痛、微熱、肩こり、子宮外妊娠、不妊治療と経験し、子供を諦めた後で幸運にも二人の子供を授かる。妊娠中はつわり、頭痛、微熱が9ヶ月まで続き、薬も飲めず体重も思ったほど増えず、二人とも1ヶ月早い早産。育児が加わってますます忙しい状態が続き、腎炎、膀胱炎、甲状腺機能障害と近くのクリニックのお世話になるたびに「過労です」と言われる。激しい頭痛が治まらなかったときは「くも膜下出血の疑い」で大学病院送り、そのまま検査入院。秋の連休中で救急病棟で過ごし、少し休めるようそのまま一般病棟に移って3日ほど入院生活。我慢強いのもほどほどにと言うサインだったかもしれない。
ドラマだと思っていた生活を素で楽しんでいる人たちとの出会い
娘が7歳の夏、家族でアメリカの友人を訪ねて3週間仕事を休み旅行。この時の体験が強烈に脳に記憶され、のちに仕事を辞めて家族でアメリカ生活をすることとなる。夫も私も子供の頃からアメリカに憧れを持っていて、映画、音楽、TVドラマなどにも影響を受け、たまたまご縁ができて近所に住むアメリカ人家族と親しくなったのがきっかけとなってのアメリカ行き。3週間の生活が快適でアメリカに住みたいと思うようになっても不思議ではありません。
日本人が have to で生活しているのに比べて、アメリカ人は want to で生活している、そんな感じを強く受けました。生活を楽しんでいる、そこには古き良きアメリカのスタイルがありました。大都会でなかったことも良かったのだと思いますが、時間がゆっくり流れているような、なんとも言えない開放感がありました。緑に囲まれ、広いスペースでの日々の暮らしは、それまで時間追われて生活していたことを振り返るきっかけにもなりました。それぞれが自立して必要以上に介入しないことも新鮮に思いました。久々に心から楽しさを感じる時間を持てました。帰ってからしばらくは元の生活が続きましたが、一度脳が心地よいと記憶したことはそれに向かって夫の行動を促したようで、子供がクリティカルエイジのうちに、英語圏での教育を受けさせたいということ、もう一つ、このままではやがて私がまた病院送りとなるだろうと案じたことも原因です。環境を変える、それが一番良いと決めてアメリカへ引っ越すことにしました。当然周囲の反対はありましたが、一度決めたら周囲の雑音には耳も貸さない夫、一つずつクリアしてとにかくアメリカ行きを決めました。
一大決心して引っ越し準備を終わらせたら間際でまさかの申請却下
日本での生活は、過去の慣習や世間の常識を重んじる親世代の意見を受け入れなければ、何かと問題になります。自分たちが話し合って決めるというわけにはいかず、親を立てることに神経を使うことも多く、我慢することが出てきます。考え方が違ってもそれを受け入れることの方が多くなります。家族とは親兄弟を含んでの家族であるという違い、ますますアメリカでの生活が心地よく思えました。
アメリカに行くことを決める前に、実はオーストラリアに移住する計画を立てました。元スタッフに誘われて行った時、海も近くて居心地の良い環境に魅せられ、移住の誘いを受けたこともあって真剣に考え始めたようです。1年以上考えた末に決心したことを聞きました。仕事を辞めて移住すると決め準備に入りましたが、この時はまだ十分な情報があったわけではなく、慎重に準備したものの希望に沿った結果にはなりませんでした。個人の努力を無にするがごとく環境が全力で邪魔する事態が発生します。荷物も梱包して運送会社の倉庫に預け、事業も主人の弟に任せて、家には両親が住めるようにと自分たちはマンションに移り、ビザが下りたらすぐ出発の状態でした。ところが受け取ったのは「申請却下」の書類。放心状態でしばらくは過ごしました。スタートを切るつもりでも叶わないこともあるということを学びましたが、夢を諦めたわけではありませんでした。子供の教育を考えたら、今の時間を大切にしたいという思いに変わりありません。どんな方法があるかを毎日話し合いました。
アメリカで成功している先人から予想外のオファーで開運
オーストラリアに行ったらまず何をするのか、もう一度最初の目的を考えていた時、アメリカ人の友人が来日し自分の仲間を紹介してくれました。以前お会いしたこともあった方ですが、留学の世話もしているということで、早速会って相談したところ「学生ビザ」なら取れるということを聞きすぐお願いすることを決めました。不思議な引き寄せとでもいうのか、友人の多いアメリカに行くという選択肢がなかったことの方が不思議でした。ビザの問題もスコトーマがかかっていたのか永住ビザしか頭になかったのですが、話をしてみたら他の方法もあるということに気づきました。目標に向かって行くときは、行き方は一つだけではなかったのです。信頼できる人に相談することで、思ってもいなかった方向に進むことになりました。不思議なことに不安より期待の方が大きくて、最初からアメリカに行くことが決められていたのかと思ったくらいです。不思議なご縁、人とのつながり、そんなことを感じました。
見切り発車ではありましたが、環境を変えたことで私のストレスもなくなり、少しずつ健康を取り戻し、いつも飲んでいた鎮痛剤も減っていきました。酷いときは処方の倍容量の薬を飲んでいたこともありましたが、そんな必要もなくなりました。体と心のサインを無視して我慢する必要がなくなり、何より無理をしなくて良い生活ができました。夫も私も時間に追われる生活から解放され、家族で過ごす時間を目一杯楽しむ生活になりました。なんでも家族で楽しむ、簡単なようでできなかったことが、アメリカではそれが普通の毎日。子供の成長を毎日見ていられる日々を楽しむことができました。拾う神に出会ったおかげで広い空間、緑に囲まれた環境での生活ができました。季節の移り変わりを楽しみながら、自分が本当は何をしたかったのか、そんなことも考えられるようになりました。忙しい生活は常に「しなければならないこと have to」が多過ぎて、「やりたいこと want to」を考えることもできませんでした。日本と違ってルールを守っていれば人目を気にすることもありません。その一方、自分の考えをしっかり口に出せないと、誰からも相手にされない国。日本では周囲の意見に従っている方が美徳と思われるようなことも、アメリカでは通用しません。自立するとは自分の考え方によるものなのかもしれません。
私たちアジア人の子供たちを現地の子供たちが受け入れてくれますように祈る日々
ペンシルバニアのランカスターには、ドイツ系移民のアーミッシュが多く住んでおり、街の至る所で見かけます。彼らの生活様式は、昔からの伝統的なものを守り、お互いに協力しあって生きていく封建的なものですが、自給自足が原則で、着飾ることは禁じられており質素で堅実なものです。世の中の景気、不景気とは無縁の生活で、他者と争うこともしません。人と比べることをしないので、競争することもありません。現代の我々の生活からは信じられないことも多いですが、信仰を重んじて厳しいルールのもと営まれている生活は、争いのない社会でもあります。なんでも便利なものが当たり前になっている生活を、少し見直すこともできました。家の修理を自分たちでやる経験もできました。日本にいたら絶対やってみようとも思わなかったでしょう。
子供の教育のためとはいえ、こちらの学校が楽しいと思えなければ意味がありません。初登校日の朝、重い足取りで車を降りた子供達、言葉も十分にわからないまま現地校に行かされることになったわけですから、不安でたまらなかったと思います。日本に帰りたいと子供が望むなら、アメリカでの生活は諦めるしかありません。楽しいと思えなければ親の決断も意味がありません。でも、案ずるより生むが易し。悩まないで行動すると案外うまくいきます。子供のためと思ってすることでも、子供が受け入れられないことは無理強いしてもいい結果は出ないですから。迎えに行った時の子供達の笑顔、弾けるような笑顔が眩しいくらいでした。「楽しかったよ」と聞いたとき、この学校で暖かく受け入れてもらえたことに感謝しました。先生方、お友達、クリスチャンスクールということもあったでしょうが、親の選択が間違っていなかったことに安堵しました。一番危惧していたことですから、この日のことは今でもしっかり記憶しています。 子供たちが現地の学校に受け入れれいただけた。
一時居住からグリーンカード取得への制度との戦いとクリスチャンからの支援
学生ビザでの滞在は5年に限られているので、その先のことも考えておく必要があります。アメリカの状況が変われば次にビザを申請しても許可されるとは限りません。不法移民の数も増えているので厳しくなることは明白です。毎年のように永住権の申請はしていましたが、こればかりは自分たちでどうこうできる問題ではありませんでした。弁護士の方を紹介していただき相談もしましたが、厳しいということがわかっただけでした。ビザが取得できなかった時のことを考えて、真っ先に考慮したのは子どもの年齢、学年です。娘が高校3年生の途中で帰国することになれば、大学へ行くのならとてもハンディを負わせることになります。アメリカに留学すると希望しても準備するには時間が足りません。何度も話し合いましたが帰国せざるを得ないのなら、2年生のうちがベターだということになりました。
帰国を決めた時、ずっと親しくさせていただいていた隣人の方から「ビザを発行してもらえるように署名運動をしてやるから帰らないでほしい」と言われました。不法移民が堂々とのさばっている現状には我慢できないが、真面目に子どもの教育や家族のために生活している我々を放っておけないから、みんなで署名運動をすると言うのです。涙が出るほど嬉しい言葉でしたが、一家族のために人を巻き込むことはやはり心が痛みました。ありがたい申し出でしたが、丁重にお断りしました。自分たちでやってみようと決めたこと、親切な気持ちだけ頂くことにしておきました。開運は行動により得られます。そのことを身を持って経験しました。楽しい時間を過ごしてくることができたのも、友人、隣人に恵まれていたからこそです。隣人とは口も聞いたことがなかった、そんな方はアメリカに結構たくさんみえます。気に入れば挨拶することもあるそうですが、親しく付き合うと言うことはあまりないようです。私たちは自分から積極的に声をかけてわからないことを聞いたり自分たちのことを話してきたので、受け入れて親しくしていただけたようです。「ネイバー(隣人)とこんなに親しくなったことはない」と言ってなんとか滞在できないかと一緒に考えて下さいました。最後は「きっとここに帰ってこい」と言ってくださり、私たちも「できることならここに戻りたい」と思っていました。
親という鬼門と場所を超越するしがらみに呼び戻される危機
子どもたちの年齢を一番大切なこととして考えましたが、もう一つ避けて通れないことは親のことでした。両親たちは70代になり気弱なことを言うようになりました。子どもの成長と反比例して親は歳をとって健康に不安を感じるようになってきます。離れているとすぐ手を差し伸べることはできませんが、それなりに両親も気が張っていたようです。帰国することでまたべったり頼りにされることは目にみえていました。親不孝をしたわけではありませんが、親からしてみれば「いつになったら帰ってくるのか」という思いは強かったでしょう。そんなことも十分考えた末の帰国でしたが、想定外のことは次々に起こりました。帰って2ヶ月も立たず私の父が亡くなり、会社の後始末をすることを余儀なくされました。このような判断は長い目で思考しないといけませんね。他にできる人がいなければ選択肢はありません。ただ子供達が転校した学校にすぐに適応できたことは喜ばしいことでした。最初の頃は「早くアメリカに帰りたい」と言っていたのですが、通ううちに日本での生活の良いところにも気付いたようで、「家は狭いけど自分たちでどこにでもいける」とポジティブな考え方をしていました。食べるものも「新鮮な魚がいつでも食べられる」と言うことに始まって、授業で英語はレベルによってクラスがあるのでそれまでのスキルを保つこともできました。帰国子女の学校だったので、友達も各国に滞在した経験の生徒ばかりで似たような環境の人ばかりだったことも幸いでした。
もう一度アメリカに行こうと主人と二人でペンシルバニアとは違う西海岸に下見に行ったこともあります。しかし州が変わると全く別のところだと実感しました。いつまでも仕事をしないで過ごすわけにはいかず、新しい仕事を見つけてとりあえず生活の基盤を作りましたが、住めば都ではありませんが、次第に日本での生活に馴染んでいきました。子供達は娘が大学受験を考えたとき、アメリカの大学を希望するかと思っていたら、「日本の大学に行く」と言うので少し驚きました。両方の生活をしてみて娘が決めたこと、親は協力しても反対する理由はありません。自分のやりたいこと、就きたい職業も自分で決めているようなので見守ることにしました。私たちも50代になると長時間の飛行、乗り継ぎも少し大変だと思うようになってきました。アメリカでの生活は確かに快適でしたが、すべてに満足というわけではありませんでした。ただ子供と一緒に過ごせる時間を十分に持てたことが何より貴重な経験でした。物の価値観、自分の考えをしっかり持つという生き方も日本でずっと生活していたらできないことだったかもしれません。家族で話し合うということも、日本にいた時は親が介入してきてできませんでしたが、向こうでの生活でしっかり向き合うこともできました。息子が進路を決める時も、好きなことを選んでくれたらいいと思っていましたから外国の大学に行くと予想していました。ところが息子も海外の大学の推薦があったにも関わらず、日本の大学を受験しました。主人と「なんで急に気が変わったのか」と不思議に思ったくらいですが、本人が決めることなので希望するところを受験しました。目先の利益や情動に惑わされないようにして、親はなんとか授業料の工面をするだけですから、子供が決めたことに一切反対はしませんでした。主人も自分が好きなところにご縁があって、ログハウスの仕事場を見つけて勤務していました。好きなことをしていないとストレスが溜まります。どうせ仕事をするのなら自分が行きたいところに行くという考えで仕事をしていたので、私はいつも主人の決めたことに合わせて手伝ってはいましたが、以前のような環境ではなかったので体調を崩すということはありませんでした。両親も歳を重ねるに従って、以前のような「なんでもしてもらって当然」という態度がなくなり、お互いにできることをするように変わってきました。留守にしていたことで、何もかも依存するということは減ってきました。
4年間のアメリカ生活から帰国してからは、少しずつ以前の生活に戻ることになりましたが、物の価値観を始め、考え方が変わっていました。子供達もはっきり自分の意見を言い、私も無理をする、我慢するということが以前より減ってきました。子供の進路も自分が決めること、親は相談には乗っても決して余計なことは言わない。仕事の方は最初から何もかも上手くいったわけではありませんが、それは主人と私が相談して決めていけば良いこと、子供は自由に巣立っていけばいいと思っていました。大切な家族を見送ることもありましたが、それも運命と受け止めてきました。
また以前のように仕事をするようになりましたが、この頃は50代後半になりジムに通ったり食事にも気をつけて元気で過ごしていました。健康診断も時々受けなんの問題もありませんでした。そんなある日、禁煙治療に行き始めた主人が「鼻から胃カメラで検査できるそうだから、やってみる」と言ったのです。今までは必ず私に「先に受けて来い、感想聞いてから俺も行く」と言っていたのに、自分から受けるなんて珍しいと思いました。どこか悪かったわけではありませんが、たまたまなんとなく受けた検査で食道がんの疑いがあるので大学病院に行くように言われました。まさに青天の霹靂としか思えませんでした。本人はもちろん、家族にとっても全くの想定外のことでした。
仕事の調整をして翌週検査を受けたら一刻も早く手術が必要と言われ、その後はバタバタと事が進んでいきました。当面仕事が再開できる予定は立たず、長期休みにせざるを得ませんでしたが、主人の回復が一番ですから長い療養生活を決めました。多発性食道癌のため10時間に及ぶ手術でしたが、なんとか無事に終わり安堵しました。5年生存率の確率は低くても大丈夫、そう思って慎重に術後の治療も乗り切りました。退院してからも以前のようには食べられなくなったので、消化の良いもの、食べやすいものと気を配り、少しでも体力が回復できるように生活していました。本人も前向きに考えていて「長い休暇を楽しもう」と言っていましたので、家に引き篭もってばかりではありませんでした。前向きなことを思考するという行動を継続しつずけました。「カートに乗ってならゴルフもできる」「短い時間なら釣りに行きたい」と積極的に楽しいこと、好きなことは始めました。娘が結婚を決めた頃に手術をしたので、結婚式の予定を半年先に娘が延期してくれて式にも参加することができました。初孫も誕生し、毎日のように孫の顔を見て成長を楽しんで、仕事の方もまた始めることができました。もう大丈夫と思って2年が過ぎて体調も良くなった頃、検査で癌の再発が見つかりました。
世界で一番頼りになる、世界で一番愛している夫を失い私も倒れる
主人が食道がんの再発で入院、余命3ヶ月の告知を受けた1週間後に私自身が大けがをして障害者となり入院、手術。しばらくは日常生活にも不自由な状態が続きました。手術後も車椅子での生活、主人のタイムリミットが近づくのを不安な気持ちで日々過ごしていました。全治2〜3ヶ月と言われたものの、そんな猶予はありませんでした。必死のリハビリでなんとか6週間で退院しましたが、まともに歩行できたわけではありません。
体が思うようにならない苛立ちと焦りの中で夫は旅立ち、すぐ義父が入院。なんとか危険な状態を乗り切ったと思っていたら、主人の49日の法要の朝他界、呆然として現実に起きていることだとは思えませんでした。自他共に認める環境の大変化が起きました。あまりにも次から次に押し寄せる悲しい現実に、気分は落ち込むばかりで悲観的な考えしかできない時期が続きました。この頃はできなくなったことばかりに目がいって、暗い気分で先のことなど考えられませんでした。娘と孫が一緒に住んでいましたが、「世話をかけて申し訳ない」という思いでいっぱいでした。
時間の静止した世界の中心で探していたものと出会う
そんなとき本を読むことで私の思考が変わってきました。本に書いてある「脳の認知機能」に興味を持ち、The REGH、言葉の力、人の心理など読んでできることを実行していきました。脳は悲しいこと、辛いことの方が記憶に残るということも知りました。どうすれば、どんな考え方をすればそうならないのか、興味が湧いていろいろな本を読みました。少しずつ自分の思いをイメージできるようになり、自分が本当にやりたかったことがわかりました。自分に自信が持てず、できなくなったことばかりを考えて、後悔していた時期もありましたが、そんなことも考え方を変えれば良いと気づきました。
足が不自由になって以前のように外出できなくなったので、本を読み始めたら興味がどんどん湧いてきて片っ端から本を買って読むようになりました。できないことばかり悔やんでいたのに、まだできることがあるという考え方に変わっていきました。言語で説明するのが難しいですがまったく生まれ変わる感覚を体験しました。自分が受けてきた教育、躾についてもじっくり考えてみました。本当に自分の考えたことなのか、ただ周囲から言われてそう思っていただけではないのか、本を読むうちに疑問も出てきました。知識は本からしか得られない、そう書かれています。この頃は手当たり次第に読んでいましたが、少しずつ自分が本当にやりたかったことが見えてきました。これからの人生、自分の好きなことをしていきたいと思い始めました。
正直な行動によりビジョンがどんどん現実になってくる
本を読むことで暗いトンネルから抜け出しつつあった頃、キンドルで本を出版してみてはと言われました。最初は冗談だと思っていたのですが、何度もお話を伺っているうちに「面白そう」と興味が湧いてきて、できるできないはともかく「書いてみよう、やってみたい」と思うようになりました。新しいパソコンを買うことから始まり、PCの使い方、書式などを一から教えていただくことになりました。それまでは経理でパソコンを使ったことはあっても、素人と同じですので失敗も多かったですが、根気よく教えていただけたので書く準備もできました。
目標ができると脳はその情報集めをしてくれます。自分が意識していなくても熱中することができると脳が反応してくれます。本を読んで得た知識を実践していくと、それまでとは全く違った考え方ができるようになってきました。一瞬で気づく感覚というものがあることに気づきました。怪我をして諦めていたことも、どうしてもやりたいと思うことは少しずつ可能性が見えてきました。自分ができないと決めなければ、できるようになるということもありました。やりたいと思ったことはやってみる、行動してみることだと思いました。家で過ごすことが多かった生活が一変して、興味を持ったら一人で出かける、行動範囲がずいぶん広がりました。アメリカで生活していた時のこともずいぶん支えになりました。環境を変えてみて自分がどう変わったかを思い出し、障害者になったからといって、全てをあきらめる必要はないと思えるようになりました。
私が幸せになると家族みんなも人生が成功し始める
考え方を変えてみると、それまでとは全く違った視点で物事を見ることができるようになってきました。こうなりたい、こうしたいという目標、ビジョンを持つことで、脳がそのために必要な情報をキャッチしてくれるようになります。好きなことをしていると、まず気分が明るくなってきます。最初はいつも笑顔というわけではありませんでしたが、意識して鏡をよく見るようにして、まずは作り笑いでもいいからにっこりしてみる、そんなことも効果がありました。暗い顔をしていても誰も喜びませんから、自分が笑顔でいることを心がけました。落ち込んでいた時は、家族も私の顔色を心配そうな目で見ていましたが、いつも笑顔を心がけているとそれも無くなります。自分の顔つきで周囲にも影響を与える、だったらまずは元気な自分になることです。自分が楽しそう、幸せそうな姿を見せれば、周囲の人にも伝わっていきます。そして幸せが雪崩れ込むような出来事が起こります。アメリカにいた時は、道ですれ違う時に目が合うとどちらからともなくにっこりと笑顔を交わすことがありました。そんなことも懐かしく思い出されますが、自分が笑顔でいることで周囲から返ってくる反応が違ってきます。
先のことをくよくよするより、やりたいことをまずやってみる、行動することです。そんな考え方ができるようになってきました。そんな頃にキンドルで本を出版する機会に恵まれ、それまでは忘れていた「書くことがずっと好きだった」ことに気付き、アメリカでの4年間の家族の生活をエッセイに書きました。書き始めて見ると、書きたいことがこんなにあったのだということもわかり、一気に40冊出版しました。特別なことだとは思っていなかったのですが、あるセミナーに行って「コンテンツを形にしろ」というわけのわからないことを言われたのがきっかけで、この活動を始めることになりました。
アメリカではなく今いる場所に「私のエレメント」があることに気づきました
ご縁で誘われてというより抗えない引力の作用でセミナーを受けることになり、右も左も分からない状態で出席するために東京に通いました。最初は場違いの所にいるのではと思いましたが、そのレクチャーはショックでした。それまでの自分のいた世界とは全く違う世界、初めてのことばかりでした。話している用語すらわからなかったのですから、今思うと無謀とも言えますが、なぜか興味を持って「もっと知りたい」と思うようになってきました。その場の空気、臨場感というものが私を変えたのです。改めて今自分が何をやりたいのか、真剣に考えるきっかけを得られました。私の家族がアメリカで生活したのは90年代、同時多発テロの起こる前の古き良きアメリカです。まだ豊かで人々の暮らしがのどかな中にも他者に対しての思いやりのあった時代でした。しかし今は状況が全く違ってきているので、以前のような環境ではないでしょう。
今自分ができること、自分のいる場所、そんなことを考えていたら、日本も住む環境としては恵まれているということにも気づきます。そんなことも今までの経験があったから思えること、そう考えると辛かったことも含めてどんな経験も無駄ではなかったと思えます。時間が未来から流れているのなら、未来は自分で変えられるということも納得できます。セミナーの課題として出されたことも、何をしていいのかすらわからなかった私ですが、必死でやっていると、諦めないで行動していると、手助けしていただける人にも恵まれました。何をやればいいのか、相談に乗っていただけたおかげで、最初は「無理」と思っていたフェイスブックで5000人という課題もクリアできました。自分でも信じられないことでした。やっていった課題はことごとくダメ出しが多かったのですが、出来はともあれ「躊躇せず行動したこと」だけは褒めていただけました。真っ先に脱落すると誰もが思っていたのでしょうが、覚悟を決めてやれば、諦めなければなんとかなるものです。今いる場所での活動をしてみよう、以前の私のように暗い気持ちで自分はなんの役にも立たないと思っている人が、考え方を変えれば希望が持てるということを伝えるのが楽しくなりました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。あなたが悩んでいることがおありでしたら、ぜひお聞かせ下さい。お名前は匿名、ペンネームで構いません。